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 若し、人有りて当に害せらるべきに臨みて、観世音菩薩のえば、の執る所の刀杖は、に段段にれて、解脱るることを得ん。

右絵図をみてお分かりのように旅人が盗賊に襲われその振り上げた刀に、我が身の危険を感じたその時信じて疑わぬ心で唱える観音の、たちどころに盗賊の刀は折れ砕けています、この絵をみてどなたもあの日蓮上人の鎌倉竜ノ口での法難を思い出すでしょう。

奇跡としか考えられない出来事でしょうが仏法を説く日蓮上人を、時の権力者北条時頼といえども力で押さえ込むことは出来なかった事の現れでしょう、仏法すなわち「人と人が生き合う爲に施される仏の教え」は、それを信じる者に、時には奇跡を起こす力の有ることを教えています 。

 




写真1

一口豆知識 〜竜の口の法難について〜 

 

  「竜の口の法難」(文永8年1271)の場所は現在の藤沢市にある片瀬川の近く、袖ヶ浦のあたりにあった刑場でのことです、この法難は立正安国論を著し幕府の政策を批判した為の法難です。

 浄土宗の元祖法然上人も当時の既成宗教教団の念仏停止の訴えにより四国へ流罪「建永の法難」(1207年)に遭っている、現在鎌倉市には材木座(当時の港が有った所)に浄土宗第三祖良忠上人(1199〜1287)がお開きになった大本山光明寺がその威容を誇っております。 その数々の出来事を秘めながらも念仏の声を友として穏やかな漣の音の中、材木座から由比ガ浜の砂浜は私達を出迎えてくれます。


 
 
〜 〜余慶の扉〜 〜

諦める(あきらめる)と言う言葉があります、一般的には思いを断念すると理解されがちですが、仏教的には「物事の道理を明らかにして真実を見極めること」を言います、これを諦観と言います。

死の縁無量といって時に思わぬ事故や災難、病気で命を落とす事があります、人は必ず何かを縁として死ぬ者だという事実を心に頂いた時、慌てることなく平常心で受け入れることもその諦観の一つです。

五十三歳で乳がんで逝った母が私の顔を見て「お坊さんになって帰って来たんだね、良かったね」の言葉を最後にお浄土に帰りました、家族の中で誰よりも早く逝く母に、仏は残された家族へ「母の愛の言葉」という奇跡を起こし、残された家族を救ってくれました。

仏の吐いた一息の風に任せて今人の世に有り、またそのお身の中に帰らせていただける。
澄んだ空気を沢山持ってと思っています(写真3はすの花)

写真3



       
 

 




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