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 若し百千万億の衆生ありて、瑠璃 硨磲 瑪瑙珊瑚琥珀真珠等の宝をもとめんがために大海に入らんに、仮使、黒風その船舫を拭きて、羅刹鬼の国にわししめんに、その中に若し乃至一人ありて、観世音菩薩のえば、このの人は皆、羅刹の難を解脱るることを得ん。この因縁を以って観世音と名づくるなり(写真1)

もし百千万億の(多くの)衆生が金や銀などの宝を求めて船に乗って旅に出たとしよう。 その時黒風(台風など)に遭い羅刹鬼(人を食べる鬼)の住む島に流されたとしても仲間の誰かが観音様の助けを求めその名を称えるならば、他の人々皆をその難から解脱(助けて)くれるであろうと教えています。

絵図では観音菩薩を中心に、その守護神が描かれています、下方には財宝を手に入れて、災難から救っていただいた事を感謝している人々が描かれています。

人は欲望を満足させる為には、他を圧し、怒鳴りつけても欲しい物を手に入れようとしますが、得にならない事にはそしらん顔、ましてや誰かの為に力を貸す様なことを嫌がる所が在りますが、まさか鬼に食われようとは思いもよらないこと、自分が助かりたい一心で称えた観音様の名、たちどころにみんなを救って下さったのです。

「やれば出来るじゃないですか」そうおっしやりながらご褒美を下さる観音様です、無論全員にです、それぞれが誰かがやるさ、では無く損得無しに自分で出来る事は進んでしなければいけません

 




写真1

一口豆知識 〜女護ヶ島(にょごがしま)の所以について〜 

 

 余慶の扉内に記されてある「天台烏薬」の霊樹は徐福伝説にまつわるものです。
秦の始皇帝の命により不老不死の霊薬「天台烏薬」を求め日本に来た徐福の従者の内五百人の童女の乗る船が八丈島に漂着、五百人の童男が青ヶ島に着いた、男女が共に住むと海神の怒りに触れるとされたので年に一度南風の吹く日、男達が八丈島に渡り夫婦の契りを結び、生まれた子が男ならば青ヶ島へ、女の子ならば八丈島に残したという、そこから八丈島を女護ヶ島(にょごがしま)と呼んだとされている。

その様子を昭和5年来島した 詩人野口雨情氏は

南風だよ みなでておじゃれ、迎えぞうりの紅はなお。

と詠い、今も島の「民謡ショメ節」の一節として愛唱されています

なお、江戸時代、滝沢馬琴の著「椿説弓張月」で女護ヶ島として各地に紹介されています。


 
 
〜 〜余慶の扉〜 〜

漁師の宝は魚、その漁の最中に突然の黒風(西風)に巻き込まれた南紀勝浦の漁師達

明治二十五年(1892年)十二月二十八日和歌山県勝浦沖でサンマ漁の漁船遭難事故が起きました。 記録によると漁船六十余隻、漁師七百四十九人が操業中、突風に遭い、自力で戻った者や救助船に救われた者二百九十一名、八丈島に百七十九人ほか青ヶ島三十一人御蔵島に十九人がそれぞれ漂着、二百二十九人が行方不明、当時の海軍省が軍艦「天城号」を派遣捜索に当たる一大海難事件であった。

八丈島に漂着できたのは十二月三十一日夜、八丈島八重根の港(写真2)である。 年末年始の祭礼のため提灯や灯篭などが樹の枝に掛けてあつたその灯りが二百余名の命を救った。

島民上げての救助活動により、多くの漁師達はやがて勝浦へと帰郷できたが死亡した十二名の漁師は一度埋葬されたが軍艦の迎えを知った島民、天田平次郎(あまだへいじろう)の働きにより荼毘に付され共に帰郷したのである。

平成四年二月二十四日、前年この事故の遭難百回忌法要を済ませた勝浦漁協組合が会長はじめ遺族会代表、同町職員らが親善訪問、当開善院で慰霊法要を行い持参した不老長寿の霊薬樹「天台烏薬」の記念植樹が行なわれた。(写真3、4)

この百回忌慰霊法要に際し住職により一葉観音ご和讃が作られた
(余慶の扉別紙参照)

写真2


写真3
(勝浦サンマ遭難慰霊祭)


写真4
(天台烏薬)
       
 
 


その表題を「一葉観音和讃」としたのは、その姿が大きな一片の蓮華に乗り、水面に浮んでいるお姿に犠牲者を救う観音のお姿と見、また、三十三身の宰官身を示す所以です (宰官身とは文武両道を持って冶世の為働く役人をいう )
この海難事故では初めに記したように海軍から軍艦が捜索救助に出動、また両陛下から金円も下賜、政府、県内外の高官、一般市民の救援義援活動が観音菩薩の願い、人の道の真のすがたの有り様をお示しくだされたからです(写真5、一葉観音)


写真5

 




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