(写真1)
無尽意菩薩は仏に白して言わく。
世尊よ、われ今まさに観世音菩薩を供養すべし。
すなわち、頸のもろもろの宝珠の瓔珞の値、百千両の金に値するを解きて、しかももってこれを与え、この言を作す。
仁者よ、この法施の珍宝の瓔珞を受けよ。
ときに観世音菩薩は、あえてこれを受けず。
現代語訳
「世尊よ、わたしは今こそ観世音菩薩を供養します」
無尽意菩薩は仏に申し上げた。 そして価値が十万両にも相当する、ふんだんな真珠でこしらえた頸飾りを頸からはずし、それを観世音菩薩に指し出し
「きみよ、この法施(ほっせ)としての、珍しい真珠の頸飾りを受けてください」
と言葉をついた。しかし観世音菩薩は受け取りませんでした。
観音の教えを聞いた無尽意菩薩は感謝の意を表します。 それが供養、そして法施という形に表れます。
供養とは仏、法、僧の三宝または死者の霊などに、身口意※1の三つの方法で回向 ※2することを言います。
※1-『身口意(しんくい)』の三方法
(身=身体による行為、身体的行為、 口=口に声を発して諸仏、菩薩の功徳をほめたたえる事、 意= 心に思うはたらきの三つの方法で諸物をさし上げること)
※2- 『回向(えこう)』
(自分の修めた善行、功徳をさとりに向かってめぐらす行為ー仏教語大辞典ー東京書籍参照)
法施(ほっせ、又は、ほうせ)とは、仏の教えを説き与えることとされますが、此処で布施されるのは宝珠瓔珞です。
一般的には財施にあたります。 値百千万両の宝珠瓔珞は人の世に有って得がたい財産、財宝です。 それを法施と言うのは、仏の世界の財産、財宝とは仏法です、無尽意も菩薩であれば身に付くものは仏の教えです、その尊さを具現化したものが宝珠瓔珞としているのです、教典では瓔珞(首飾)でも実際は価値を量ることなど出来ない仏法です、これが法施という由縁(ゆえん)です。
観音菩薩だからこそその「仏心は、やり取りの出来るものでは無いのだ」ということを我々衆生に示すべくあえて「これを受けず」なのです。
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